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長濱忠勇倉庫-農産品コールドチェーン物流システム

長浜郷の忠勇倉庫は、かつて農会が肥料を保管するための倉庫として使われていましたが、雄本老屋と緯豊営造の協力により新たな命を得て、「コールドチェーン物流システム(低温物流システム)」の重要な拠点へと生まれ変わりました。かつて農業倉庫として機能していたその歴史的脈絡を受け継ぐだけでなく、さらに視野を広げ、地域産業の将来的な発展にも目を向けています。これにより、地元で豊富に生産される野菜や果物が、加工を通じて特色ある製品へと生まれ変わる可能性が開かれたのです。将来、忠勇倉庫が保管・輸送の中継地点のみならず、長濱の地元ブランドを確立する拠点となり、古い倉庫が生まれ変わった新たな魂で地域の価値と独自性を創造し続けていくことを期待しています。

長浜郷は、八仙米やローゼルなど豊富な農産物で台湾全土に知られています。しかし、地理的に交通の便が悪く、冷蔵設備も十分でないため、農産物は貯蔵や輸送の過程で損失を被ってきました。

この問題を解決するため、2023年末に雄本老屋と緯豊営造が長濱郷農会に協力し、元々肥料と穀物を保管していた忠勇倉庫を「コールドチェーン倉庫」に改造しました。

わずか3ヶ月で、台東と花蓮県の境界に位置するこの倉庫に新たな命が吹き込まれ、1月8日に竣工式が行われました。

農業部の陳添壽次長(右から2人目)、農糧署東区分署の徐煇妃分署長(右端)、長浜郷農会の洪正憲総幹事(右から3人目)の記念撮影。

冷蔵倉庫内には RC 構造の冷蔵室が設けられており、地元の農作物の保存期間を延長することができます。さらに、EC(電子商取引)や宅配ネットワークなどの流通チャネルと連携することで、生産と販売の連携体制を強化しています。また、循環式焙煎システム、エア搬送式ティーバッグ充填システム、雑穀真空包装機などの加工設備も導入され、農産物の市場での認知度と経済的付加価値を高めています。さらに、農会は屋上に太陽光パネルを新設し、発電と断熱の両方の機能を備えることで、持続可能かつ効率的に電力消費を削減しています。

写真の機械は「エア搬送式ティーバッグ充填システム」で、乾燥させた野菜や果物、穀物をティーバッグ型の飲料製品に加工し、市場での競争力を高めるものです。来賓の手にある「台東3号ローゼルティーバッグ」は、まさにこの設備で製造されたもので、長濱郷を代表する特産農産品の一つです。左側の「循環式焙煎システム」は、大豆、赤キヌア、粟を複合穀物茶や金剛好醤油などの特色ある商品に加工することができます。

コールドチェーンシステムの増設後、忠勇倉庫は建築物の外観が一新されただけでなく、機能的な位置づけも変化し、長濱地域ブランドの拠点となりました。

塩埕の老街・古家再生運動

日本統治時代の打狗(高雄)築港計画の推進により、かつての海は埋め立てられて新しい土地となり、一面に広がっていた塩湖や沼地も市街地整備によって整然とした街区になりました。「哈瑪星」と「塩埕」の2つの港によって発展した新興市街には埠頭、鉄道、会社、銀行と商店が集まり、空前の繁栄を迎えました。商港の背後に位置する塩埕(エンチン)地区は、1920年代には劇場、料亭、カフェ、百貨店が立ち並び、あらゆる娯楽や社交が集まる華やかなエンターテインメントの街として栄えていました。この繁栄は戦後も続きましたが、1970年代に高雄の政治経済の中心が東へ移動するにつれて、次第に衰退していきました。

いまや塩埕は、かつてのように人波が絶えない「盛り場(繁華な商業・娯楽の中心地)」ではなくなりましたが、その街並みに残る古い家々や路地には、いまだ黄金期の面影が息づいています。少し手をかけて修復・整備を行えば、街の精神は再び蘇る。その理念のもと、今年、雄本老屋は協力会社の合本営造とともに、高雄市文化局が推進する「古い町家の再生プロジェクト」に参加し、塩埕および周辺地域にある築50年以上の老屋22棟のファサード改修工事を手がけました。建物のファサードから本来ない建材や増築構造を取り除き、電気や水道の配管、エアコンの室外機、電気・水道メーターなどの現代設備を配置し直し、古家の耐候性能を強化しつつ、照明計画によってファサードの美しさを際立たせることに重点を置きました。目指したのは、空間の物語の継承と再現を通して新旧市街地の変遷における港町の発展の歴史的文脈を描き出すことです。

1970年代初頭、人々で賑わう塩埕の街並み。(画像出典/写真家・鐘清溪、1973年撮影)

外から内へと向かう古家の再生

築60年の瀬南街の古家。「老街・古家再生運動」において最初に完成した場所。(画像出典/高雄市政府文化局、ARZ FILMS 撮影)

「老街・古家再生運動」の前期では、高雄大学の陳啓仁学長率いるチームが多くの家主と接触し、最終的に瀬南街の古家、新楽街二連棟、中山一路八連棟、国際商場(旧高雄銀座)などの歴史建築をモデルケースに選びました。これらの空間は住居や店舗、または空き家になっており、塩埕地区の過去の栄華を反映してはいるものの、時の経過で輝きを失っていました。また、伝統工法や建材の入手などの問題もあり、修繕や維持管理が困難でした。今回のプロジェクトは、外観の修復から着手し、旧市街地の忘れられた一角に光を当てるものでした。

この「都市設計」の視点で展開する古家再生活動には、雄本老屋が2023年に台北市で実施した「バルコニー整備実験プロジェクト」との類似点があり、いずれも街区への小規模な介入や既存の建物外観の微調整を通じて、住民や近隣の人々に古家の本質的な良さを再認識してもらうことを目指しています。家主の日常生活への影響を最小限にするため、修繕チームは限られた時間内にファサード改善工事を終える必要がありましたが、彫刻のディテールや埃の除去にも手を抜くことなく、建物本来の材質の質感や装飾的要素の復元に努めました。

最初に完成した「瀬南街の古家」。この家には家主である李さんの大切な思い出が沢山詰まっており、夫婦の日常生活を見守ってくれた住まいです。60年の歳月の中で建物が老朽化し、壁面のモザイクタイルの欠損や、鉄製装飾欄干の塗装剥がれなどの様々な症状が現れていました。精巧な木製格子窓も機能性を考慮して現代的なアルミ窓に交換されていました。工事期間中、チームメンバーは何度も現場を訪れ、外壁の清掃、修復、防水処理と並行して洗浄後の壁面や欄干などのサイズや色番を慎重に照合し、最適なタイルや塗料を選びました。また、元々の木製窓の分割形式に従い、ダークブラウンのアルミ製気密窓をオーダーメイドしました。

修繕後の瀬南街の古家は、温かみのある色調のタイルと空色の鉄製装飾欄干の鮮やかなコントラストが目を引き、周囲の建築物と調和しつつも街区で一際目を引く印象的な建物になりました。20年前にこの地に店を構えた南北貨物貿易会社はなくなり、当時瀬南街に集まっていた家族のメンバーも各々の道を歩んでいますが、埃を払い落とした古家は過去の記憶を再び鮮明にし、地元の活気溢れる商業の歴史を伝えています。

チームは頻繁にカタログと色見本を現場に持参し、古家に最も適した装飾材料を比較検討した。
鉄製装飾欄干の吊り下げ作業中、修繕チームが鉄材部品の補強塗装を行っている様子。(画像出典/高雄市政府文化局、ARZ FILMS 撮影)

同じくかつて店舗として使われていた「新樂街二連棟」は、高雄で長年親しまれてきた老舗鴨肉店の発祥の家です。後継の家族が次第にこの地を離れてからは、倉庫や飲食店の下ごしらえスペースとして利用されてきました。やがて、建物の前に設けられた看板フレームやビニール製のひさしが、本来の上品な佇まいを覆い隠し、騎楼のモルタル仕上げの柱や梁も、幾重にも塗り重ねられたペンキの下に埋もれてしまっていたのです。チームはまず、ファサードに後から追加された増築部分を撤去し、既存の鉄製窓枠を耐候性のある木製窓へと交換しました。また、一方の窓には当時の装飾格子(窓花)の職人技を丁寧に残しています。さらに、もとのモルタル洗い出し(抿石子)の質感を参考に、塗料を削り落としたうえで、色味や粒の大きさが近い石材と調合塗料を選定し、線形や曲面のプロポーションに合わせて騎楼空間を丹念に修復しました。

丁寧に洗浄・修復された赤レンガの壁面は、夜間にウォールウォッシャーライトが照射されると、幾つかの損傷が突然現れます。家主の呉さんが家族から聞いた記憶では、これらの凹みの痕跡は恐らく第二次世界大戦中の米軍の爆撃による弾痕であるとのことでした。そのため、修繕チームは平坦ではない壁面を慎重に保存し、この土地が経験した激動の歴史を建築空間に記録することにしました。

修繕後の木製の窓格子は、その中に収まる街区の風景に時代の変遷の模様を添えている。写真は、小本チーム設計二部のシニアマネージャー郭以諾(左端)、古家計画部の専門員劉亮妤らチームメンバーが竣工検査を行っている様子。

街区の復元、華やかな賑わいの再現

修繕前の中山一路八連棟は、多様なファサードスタイルを持っていた。(画像出典/高雄市政府文化局、ARZ FILMS 撮影)

高雄駅の前方に位置する「中山一路八連棟」は、南北から訪れる旅行者の目を引き、この都市に対する人々の第一印象を形作っています。今年の「老街・古家再生運動」に参加したこの、7棟のアパートの中には、住宅、バイクレンタル店、美容サロン、使われていない空き家があり、半世紀を超えた建築物のファサードは各々が独特の表情を見せていました。チームは古い看板や鉄材部品を撤去し、配線を整えた後、文化資産の外壁洗浄に精通したチームを招き、剥離剤を使用してファサードの装飾彫刻を復元しました。現代の使用ニーズに応えるため、修繕工事では新しい看板の設置やエアコンの交換も行い、室外機を軒下に移動させ、亜鉛メッキのエキスパンドメタルを使用して全体の視覚的な美しさを維持しました。

老街・古家再生運動は、この古い連棟アパートの往年の整ったファサードを取り戻すとともに、個々の住人が長年にわたって蓄積してきた特色も保存しました。

特筆すべきは、チームが古いアパート内の美容サロンの顧客の多くが外国人労働者であることを考慮し、看板の交換過程で家主の合意を得て、顧客が普段使う言語で新たにデザインした点です。世代を超えた生活の軌跡が融合する八連棟の建物には、地域発展の流れが具現化されています。ファサードの改善後も、多様性を受け入れ、新旧共存する港町の精神を映し出し続けることでしょう。

設計二部のスタッフ、余品均が玉砂利洗い出し仕上げの壁面に合わせて調合塗料を作成している様子。
老街・古家再生運動中、中山一路八連棟にチームが新たにデザインした看板が掲げらました。

連棟式の街並みやアパート型の古家に加えて、1936年に日本の銀座商店街をモデルに建設された「高雄銀座」も、今回のプロジェクトにおける改善事例の一つです。高雄初の大型百貨街であった高雄銀座は、以前は輸入品の集散地であり、バーやカフェなどのモダンな娯楽施設が集まっていました。建物の構造は第二次世界大戦の空襲で深刻な被害を受けましたが、1950年代に朝鮮戦争が勃発し、米軍が高雄港に駐留したことを背景に再び商店が集まり、「国際商場」という名前で繁栄を取り戻しました。また1963年にはアーケード街のブームを受けて拡張工事も行われました。しかし、都市発展の中心が移るにつれて国際商場もモダンな輝きを失い、中央の吹き抜けと両側の商業スペースをつなぐ通路だけがこの地の過去を物語っていました。

日本統治時代に絵葉書(ポストカード)の形で保存された高雄銀座の歴史的画像。

塩埕区の喧騒や静寂と共に歩んできた国際商場。(画像出典/高雄市政府文化局、ARZ FILMS撮影)

かつての繁華から静寂へと移りゆく多くの旧市街の建物と同様に、「高雄銀座」もまた、複雑な所有権や長期の空き家化といった問題を抱えていました。そこでチームは、ささやかではありながらも効果的な「照明計画」によって空間へ介入することを選びました。実際に入口や通路を明るく照らすことで、人々の記憶の中に眠っていたこの商業街へのまなざしを、再び呼び覚まそうとしたのです。チームは投光器の設置に着手しつつ、天井に吊るされた古い蛍光灯の台座を残していきました。これは、人々が黄色い光に誘われて見上げた瞬間に、過去と現在の対比、新旧の融合が生み出すインパクトを感じさせるためです。今回の照明計画のために特別にデザインした照明カバーは、新しい照明器具が建築物のファサードに影響を与えるのを効果的に防ぎ、元の空間の雰囲気を最大限に保っています。

「老街・古家再生運動」は現在も継続中です。外から内へと微調整を行いながら、少しずつ塩埕地区の視覚的印象を再構築しています。本プロジェクトの企画・設計、そして施工を担ったチームとしても、私たちは一連の具体的な取り組みを通じて、これまで大切にしてきた「老建築の再生」という理念を実践したいと願っています。都市の街並みが多様な建築様式を包み込み、それぞれの時代が持つ美意識や風格を映し出すことができれば、地域の発展の軌跡は自然と現代の暮らしの中に溶け込み、文化の土壌を豊かに育む肥沃な大地となっていくはずです。

老街・古家再生運動において高雄銀座の通路空間が照らされました。

曲巷冬晴-彰化県古家活性化プロジェクト

およそ2年前、小本チームは一件の特別な古民家保存プロジェクトを引き受けました。準備、修繕、整備の年月を経て、ついに今年の春、その努力が実を結びました。私たちの古家民宿、「曲巷冬晴 Sukina B&B No.1」が完成したのです。鹿港の九曲巷内の金盛巷52号にあるこの漢式古家は、20年以上荒れたままになっていました。空間計画の最適化を考慮し、六角タイル、木製の丸梁、赤煉瓦の壁など、古家本来の特徴を保存しました。老朽化して使用できない部分を修復し、新しい構造を支える鉄骨を設置して光を取り込み、路地にある古家の採光不足という欠点を改善しました。古家を愛する旅人に、快適で趣のある宿泊体験を提供します。

古家の活性化における課題

「先祖から受け継いだ古家を、どうしたら適切に活用できるでしょうか」遠方に住む現在の家主から漏れ聞こえる疑問と不安、修復した古家の将来的な再利用方法を知ることも評価することもできないという困難な状況。

自分たちだけでは、この古家の未来をすべて見通して計画することは難しい、そう感じていました。せっかく修復した空間を他人に任せれば、きちんと大切に扱われ、建物の文化的価値を活かしてもらえるのかという不安も残ります。整理しても落ち着かず、整理しなくても前へ進めない。そんな板挟みのような葛藤が、幾重にも重なっていったのです。

計画と統合、転身と再生

言い換えれば、家主は家族の古家を保存したいという思いはあるものの、「修復」と「再利用」を同時に満たせる良い解決策が見出せていませんでした。家主が解決策を模索する過程で、私たち雄本老屋の部門横断チームの専門的な「統合」能力が力になり、家主にこの核心的な問題の解決方向を提供しました。

古家の健康診断や文史調査、建築空間の修繕・インテリアデザインの専門分野にとどまらず、計画立案から行政による支援・補助制度の活用までを総合的に評価・設計。ハード面での修復や設計だけでなく、ソフト面での再活用・運営計画の策定と実行にも力を注いでいます。そうして再生された古家は、単に空間が新しくなるだけでなく、時代とつながり、持続可能な未来へと向かう生きた場として息づいているのです。

古家を愛する旅人のために、金盛巷52号「曲巷冬晴」がくつろぎと安らぎの場所を提供できることを願っています。曲がりくねった九曲巷は、鹿港の9月の季節風を遮り、冬でも春のように暖かく静かです。ガジュマルの木陰で涼みながら、見上げれば青空と緑の葉が揺れている。裏庭ではお茶を淹れたり湯に浸かったり、冬には焚き火を囲んで小さな酒を温める。

地域の古家の「転身と再生」は容易ではありませんが、私たちと家主が話し合って実践した総合的な解決策が、より多くの人々に心からの微笑みをもたらすことを願っています。私たちがいつも語っていること。「家は人がいてこそ輝きます」鹿港の「曲巷冬晴」は、皆様のご来訪をお待ちしております。共に生まれ変わった古家へ足を踏み入れましょう。

長源医院-私有歴史建築保存再生プロジェクト

記憶を担う古家と古いものたち

「物が長い間隅に積み重ねられて忘れ去られると、本来の価値も徐々に消え、最終的には空間を占める廃棄物になってしまう」家具を一つ一つ分類し、過去を振り返る中で、長源医院の4代目家主である許正園医師は古いものが捨てられることへの惜しさを感じたままに吐露し、この歴史建築とその中の思い出をまだ気にかける人がいることに感謝しました。

長源医院の修復工事が始まる前、雄本老屋は家主の協力のもと、屋内に残された文物を丁寧に梱包・保管し、時の流れの中から失われかけていた記憶を掬い上げました。修繕の過程では、かつて朽ちていたもの、埋もれていたもの、さらにはすでに取り壊されていた構造までもが、歴史資料や古写真の検証によって次々と本来の姿を現していきました。こうして古家と古い品々は長い眠りから目覚め、埃を払い、再び人々が行き交う街角へと戻ってきました。斜め向かいに建つ歴史建築・玉珍斎とともに、鹿港の象徴的な交差点の風景を織りなしています。

2020年、長源医院の文物収蔵倉庫には、古い建物から運び出された家具や日用品が並べられていました。記録と整理の過程で、許正園医師は父親が残した多くの古い写真や資料を発見しました。さらに文化財調査を進めるなかで、幼い頃の記憶をたどりながら、小学生時代に身につけていた最初の腕時計を見つけ出しました。半世紀の時を越えても、ベルトの弾力はそのままに、止まった針はまるで時を封じ込めたかのように静かに佇んでいました。手首の上で凝り固まっていた時間がふたたび温もりを帯びるにつれ、許医師の表情もやわらぎ、子どもの頃にティトニの腕時計をつけたときのあの胸の高鳴りを、仲間たちと笑顔で語り合いました。

トタン屋根の下の新発見

ティトニの無傷の姿とは対照的に、これらの品々を守り続けてきた長源医院の建物は、長い歳月のあいだに深刻な漏水やシロアリ被害、そして壁面の膨張や剥離といった問題を抱えるようになっていました。やむを得ず、許家の祖母・施秀香さんは、工事業者に依頼して屋根を鉄板で覆い、雨漏りを防ぐことで、ひとまず建物維持の悩みをしのぐしかありませんでした。

天井からの雨漏りは防げたものの、鹿港の湿気はいたるところに入り込み、閩式(びんしき)街屋の木製丸梁の端部を腐らせ、そこにシロアリが巣を作って棲みつくようになっていました。修復チームは当初、30本の木梁を交換する計画を立てていましたが、実際に鉄板を取り外して構造の状態を確認したところ、損傷が予想以上に深刻で、最終的には交換本数を70本に増やさざるを得ませんでした。修繕後の煉瓦壁と木梁には十分な防水処理が施され、建物の耐用年数を大きく延ばすことができました。また、風化して崩れていた屋根の白灰製の天溝は、現代の工法を取り入れてステンレス材で再構築され、排水機能が大幅に向上しています。

建築物の損傷程度を再評価するだけでなく、修復チームは工事の過程で多くの驚くべき発見をしました。

屋根の棟木のトタンが取り外されなければ、その中に覆われていた装飾物が日の目を見ることはありませんでした。精巧な透かし花タイルやレリーフ模様には、先人たちが家族の繁栄を願った思いが込められているだけでなく、建築当時に流行していた装飾様式も映し出されています。これら貴重な意匠を保護するため、修復チームは3Dスキャン技術を用いて建築の細部をデジタル化し、そのデータをもとに屋根棟の再構築を行いました。もともと脆弱だった構造部分は評価のされた上、取り外され、展示品として保存され、竣工展では来場者が間近でその精緻なディテールを鑑賞できるようになっています。

フィルムに刻まれた光で、建築の姿をよみがえらせる

鹿港は夏に雨が多く、冬には強い風が吹くため、独特の「不見天街(ふけんてんがい)」という街並みが形成されました。街道の両側に並ぶ商家が、互いに軒を連ねて「街路亭」と呼ばれる長い屋根付き通路が作られ、煉瓦の床が敷かれ、歩行や集いの場として人々に利用されていたのです。「不見天街」は1934年の市区改正の際にすでに取り壊されてしまいましたが、当時の住民が屋上から撮影した古い写真が残されており、それらは現在、建物調査における貴重な参考資料となっています。

修復チームは、許家の祖母・施秀香さんの聞き取り記録を手がかりに、長源医院の一番手前の棟のファサード、第二・第三棟の通路部分、そして後方の屋根勾配上に、老朽化して損傷した煉瓦舗装をいくつも確認しました。古写真や歴史資料と照らし合わせた結果、それらがかつての「街路亭」の延長構造であったと推定され、修復工事では地面の煉瓦を再敷設し、さらに通路部分に残っていた古い煙突も修復されました。

歴史写真を通して見ることで、長源医院のかつての建築デザインだけでなく、当時の鹿港の人々の暮らしぶりまでも垣間見ることができます——そして、古建築の再生もまた、その延長線上にあるのです。「異なる時代に築かれた建築空間が、老朽化を理由に取り壊されることなく残されるとき、歴史は自然と日常生活の中に溶け込み、やがて都市の風景の一部となっていく」まさに、雄本老屋の総顧問・謝佩娟(シェ・ペイジュエン)氏が長源医院について述べたように──かつて失われた記憶や建築の構造は、地域文化を形づくる大切な断片であり、それらを再び見出すたびに、現代の暮らしとの新たなつながりが生まれていくのです。

長源医院の閩式街屋の第二・第三棟の通路部分は、かつてトタンで覆われていた。
修復工事の後、屋根には再び瓦と煉瓦が敷き詰められ、古い煙突も元の姿を取り戻した。