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「当たり前ではない」という好奇心で、地域の非凡さを発見する:
歴史現場の多点透視法

2024 / 10 / 25

単一視点の公式歴史記録とは対照的に、地域に焦点を当てた文化歴史調査では、民間の多数の「個人」視点から歴史像を組み立てることができ、マクロな叙述では見落としがちな繊細で微妙な時代の質感が観察できます。長源医院の歴史を探る過程で、雄本老屋チームは許家の物語を深掘りすると同時に、近隣の街区の昔からの日常風景も描き出し、鹿港の100年の変遷により多様な解釈を残そうと試みています。

今回、雄本老屋は清華大学の王俊秀名誉教授を長源医院に招き、「歴史現場を読み解く-新竹清華園の史料発掘の道」をテーマに、新竹清華園の発展の流れにおける重要な断片から切り込み、30年の歳月をかけて地方研究を行い、その成果を『新竹清華園の歴史現場』、『我書故我在:高雄製油工場図書印の記憶を復刻する』などの著作にまとめた心の軌跡を共有してもらい、史料収集と研究方法についても伺いました。

講師の王俊秀名誉教授(左端)と妻の徐妙齡教授(左二)。長源医院前で記念撮影。

講演の開始に先立ち、王俊秀教授は、大肚回春医院が所蔵する貴重な医学古書の数々を特別に貸し出してくださいました。それらの展示は、長源医院の歴史と響き合うだけでなく、日本統治時代の台湾における医療機関同士の密接な関係をも鮮やかに浮かび上がらせました。その中でも、1940年版の『日本医籍録』には、当時の多くの台湾籍および日本籍の医師の経歴が記載されており、鹿港の許読医師の名もその中に確認できます。さらに、王俊秀教授は雄本チームと協力し、1924年8月に許読医師が郷里に戻って開業することを決めたという新聞記事を発見しました。この史料から、長源医院のおおよその正式開業時期を推定することができます。

『日本医籍録』には当時の日本、朝鮮、台湾等地域の医師情報が出生日から開業場所、卒業学校、研修病院、家族構成や趣味に至るまで極めて詳細に記録されていた。

好奇心から始まった史跡探求

新竹市の中心に位置する清華大学と交通大学は、台湾を代表する学術の拠点です。しかし、今のように木々が茂り、緑あふれるキャンパスとなる以前、かつてこの土地はどのような姿をしていたのでしょうか。王俊秀教授は、1990年に清華大学人文社会学院の新校舎が落成した際に、鍾馗(しょうき)の像を招いて邪気を祓う儀式が行われ、理由を調べると、新校舎の下には、数千もの無縁墓が存在していたことが明らかになったこと、それが清華園の歴史に興味を持つようになったきっかけであったと語りました。当時、清華大学教養教育センターの主任だった王俊秀教授はこの史実に深い関心を抱き、文献や古書を調べた結果、地域の発展過程が徐々に分かってきました。清国統治時代に「赤土崎」と呼ばれていた清華園は境界線に近く、漢民族と原住民の衝突による死者が数多く埋葬され、無縁塚が自然に形成されたのです。これは新竹市第一公墓の前身で、「鶏卵面義塚」と呼ばれていました。

これを皮切りに、王俊秀教授は30年にわたる清華園の歴史探求を始め、一見些細で無関係に思える歴史の断片を丁寧に照合した結果、ついに清華大学の過去と現在が繋ぎ合わされたのです。さらに、3つの主要な歴史現場の物語の詳細な研究にも取り組みました。「鶏蛋麺義塚」は、清代統治時代における諸民族の摩擦と共存の歴史を物語り、「日本海軍六燃福利地帯」は、かつて台湾が東アジアにおける燃料供給の中核地域であった過去を映し出しています。さらに、「新竹ゴルフ場」は、日本統治時代に台湾総督府が各地に遊園施設を設置した足跡を今に伝えています。

「誰もが歴史探偵になる潜在能力を持っています。『当たり前ではない』という好奇心を持ち続け、地域の歴史を掘り下げれば、一見平凡な事物から非凡な物語を発見できるのです」王俊秀教授は、戦後に清華大学が台湾で復校し、新竹に拠点を置いた事例を挙げ、一見すると当然の流れのように思えるこの出来事の背後にも、実は掘り下げるべき多くの歴史的背景が潜んでいることを指摘しました。当時、アメリカ合衆国の元大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが提唱した「原子力の平和利用」構想のもと、核エネルギー技術はアメリカの援助とともに台湾へ導入されました。1956年、清華大学は原子科学研究機関として再建が計画され、原子炉の安全性を考慮した結果、乾燥して雨が少なく、周囲に人家の少ない赤土崎地区がキャンパス建設地として選定されました。その後、交通大学も近隣地域で再開しました。

細部から歴史の姿を探る

文化歴史調査の過程では、多くの細部を観察し繰り返し検討することで、その中に秘められた価値を掘り起こすことができます。王俊秀教授は、第六海軍燃料廠の発展過程を調査する中で、高雄製油所の蔵書に押された図書印の変遷に注目し、そこに名称変更の痕跡を見出しました。また、日本海軍施設部の引き継ぎ目録を調べる過程で、台車や鉄道、さらには空港が相互に連結していたことを示す貴重な手がかりも発見しました。また、六燃が日本第二海軍燃料廠を手本としていた背景から、両者のシステムや空間設計などの分野の史料で相互に検証できる可能性もあります。

紙の史料を熱心に読み込む一方で、現在ではデジタル化が進む文献データベースも、文化歴史研究において一層便利で実用的なツールとなっています。たとえば、中央研究院地理情報科学研究センターでは、当時の状況を照合できる歴史地図を閲覧することができます。また、台湾総督府職員録システムには、日本統治時代に政府機関で勤務していた人々の名簿データが収録されています。さらに、中央研究院台湾日記知識庫では、約600万字にもおよぶ日記本文とその注釈が詳細に整理・公開されており、貴重な研究資料として活用されています。

王俊秀教授は、赤土崎地区に住んでいた社会運動家の黄旺成が残した日記が、地域の一般市民の生活を研究する上で重要な情報源になると述べています。人と都市の相互関係だけでなく、当時の手押し台車を押す役目を担っていた車夫の名簿まで細かく記録していたのです。公式記録ではほとんど言及されない一般市民は、社会を動かす重要な力でした。こうした関係性は、小規模な空間の歴史研究でなければ完全に示すことはできません。

文化歴史調査は過去を振り返るだけでなく、地域再生の重要な栄養素でもあります。王俊秀教授が述べるように、「当たり前ではない」という好奇心を抱き、一見当然と思われることとその背後にある物語を探求するなら、より完全で現実に近い時代の全体像を組み立てることができ、それを翻訳・再現することで足元の土地に対する人々のアイデンティティを育むことができるのです。雄本老屋は今後も歴史探偵の精神を持ち続け、長源医院の窓口を通じて、家族、鹿港街区、そして台湾の医療発展の歴史的文脈を探求し続けます。

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